夕闇とともにマチコの軒を叩き始めた雨が、巣で気ぜわしく鳴くツバメの声を掻き消した。
餌をねだる雛は、もうずいぶん大きくなっていて、親鳥は降りしきる雨の中を、ひっきりなしに行ったり来たりしている。
仕込みを終えた真知子が、それを見上げながら「人間もだけど、ツバメの男性も大変よねぇ……」とつぶやき、玄関へ暖簾を掛けた。
「とっととと~、ひっでぇなあ」
振り向くと、額に汗をにじませた若い男が、濡れたスーツをハンカチで拭きながらぼやいていた。
手に提げている鞄はやたら分厚く、重たそうに見える。雨でふやけた紙袋には、パンフレットらしき物が入っていた。
「すみません。ちょっとだけ雨宿りしてって、いいですか?」
「ええ。よかったら、中で座って待てば、どうかしら。その紙袋、乾かさないと、破けちゃいますよ」
真知子の白い前掛け姿は、気兼ねさせない雰囲気だった。
「あっ……じゃあ、お言葉に甘えて」
男は窓際のテーブル席に座ると、真知子に「高田といいます」と小さくおじぎし、しばらくの間、格子窓の雨だれを見つめていた。
ほうじ茶の匂いが、ふと高田の鼻先をくすぐった。
「その席にいるとね、いろいろな“雨宿り”が見えるのよ」
「……ふ~ん。何だか、おもしろそうですね」
真知子の煎れた茶に高田は軽く手を合わせ、にんまりとした。
すると、向かいの料理屋の店先に、中年の男が駆け込んだ。
濡れたスーツを拭きもせず、携帯電話をしながら、鞄から書類を取り出し、商談を始めたようだった。
軒先から落ちる雨だれは、彼の太った体を濡らし続けていた。
「後でかけ直せばいいのに……でも、自分もあんなこと、やってんだよなぁ」
独りごちる高田に、今度はおしぼりを手にして、真知子が言った。
「無意識に、そうなっちゃってるのよねぇ。かかってきたら、必ず出なきゃいけない。留守電聞いたら、すぐに電話しなきゃ悪い。何だか、携帯に使われてるって感じね」
そう言われた高田は、思い出したかのように自分の携帯電話を開いて、着信をチェックしていた。
「ほほ~、みごとな条件反射じゃん」
いつの間に入って来たのか、松村が笑っていた。
「でも、分かるよ俺も。サラリーマンの悲しい性だよねぇ」
そう言ってぬる燗を注文した松村が、高田の向かいに腰を下ろして外を見ると、男はまだ電話を続けていた。
そこへ、白髪の男が小走りにやって来て、軒下で肩を並べた。
中年男は少し場を詰めようとして、携帯電話を左手に持ち替えた。
その途端、男の手から電話機が抜け落ち、ドブ水にはまったのだった。
「あっちゃ~!ダメだよ、ありゃ」
「商談失敗……携帯買い替え……踏んだり蹴ったりだな」
高田と松村は、自身の体験を思い出すかのように、その声を重ねた。
ところが、軒下の中年男は、やにわに白髪の男性に向かって手をすり合わせ、なにやら、くどき始めたようすだった。
「はっは~ん、あいつ、隣のオヤジさんに携帯借りようって腹だな。いやぁ、商魂たくましいねぇ」
感心する松村に、真知子がぬる燗のお銚子を置いて、呆れた。
「あそこまでいけば、もう私は、物が言えないわよ」
口をつぐんでいた高田が、つぶやいた。
「俺……以前、あれと同じことやったんです。その場は何とかなったんですけど、結局、商談の相手が借りた電話の番号に何度もかけ間違えることになっちゃって、契約はパーになっちゃいました」
「……それ、教えてあげれば」
真知子もテーブル席に座り、三人ともが、向かいの男たちを見つめた。
その時、思いもよらない展開が起こった。
白髪の男はしばらく中年男にしゃべり返すと、濡れそぼった肩を叩き、二人して料理屋の暖簾の中へ消えて行ったのだった。
「えっ!な、何が起こったんですか?」
高田が、唖然として口を開いた。
「ほぇ~!あのオヤジさん、やるねぇ。アイツを反対に諭しちゃったみたい。『もういいじゃねえか。袖擦り合うも他生の縁、今日は忘れて、飲もうや!』てなとこかな」
松村が手を叩いて喜ぶと、真知子も胸がすくような口調で言った。
「ステキ……あれこそ、一期一会よねぇ」
その言葉が終わるやいなや、高田の携帯電話が鳴った。雨は、ひとしきり降り続いている。
「どう?今日はもう、いいんじゃないの?」
目尻をほころばせた松村は、高田に盃を差し出した。
6回目の呼び出し音まで黙っていた高田が、ふいに電話に出た。
「ただいま、雨宿り中です。電話に出ることが、できません」
三人の柔らかな笑い声を、雨音がしっとりと包んでいた。