満開の霧島つつじが、夕陽を浴びて、公園をいっそう赤く染めていた。
薄い暗がりには、水銀灯にたかろうとする羽虫を追って、数匹のコウモリが右往左往している。
連日の夏めいた気温に、通りには気の早い半袖シャツのサラリーマンたちの姿も見えた。首筋に汗をにじませる男たちは、マチコの暖簾をくぐると、大ジョッキのビールを口々に注文していた。
「俺も、まずは生!」と、カウンターに座ったばかりの松村が、おしぼりで額をぬ ぐった。宮部は、もう中ジョッキを空っぽにしている。
「私は、生貯蔵酒ね。ノルマ、果たさなきゃいけないし」
宮部は毎年この時期になると、真知子に頼み込んで、少々多めに生貯蔵酒を納めている。それを知ってる常連たちも、たまには好きな銘酒を辛抱して、宮部の納めた小瓶の酒を注文してやるのだった。
「澤井さんは、どうすんの?」
「あっ……ああ、俺は……ぬる燗」
松村の問いに、澤井は生返事したままテーブル席の一角を見つめていた。
その視線の先に、ここ数ヶ月姿を見せなかった常連の男が、ポツンと座っていた。皺が寄ったジャケットに膝の突き出た綿のズボンが、くたびれた印象だった。
「あれ……森さんだっけ?ずいぶん久しぶりじゃないの?」
目を細める宮部に、真知子が生貯蔵酒を注ぎながら答えた。
「節分の頃に、森さん、奥さんを亡くされたの。八百秀の大将が、教えてくれたわ。定年になってからは、いつも奥さんと一緒に買い物に来てたそうよ。子どもさんがいない分、とっても仲のいい夫婦だって」
「そういや以前、一度だけ、奥さんをここで見たことあるよ。能登訛りのある、楽しいおばあちゃんだった。『高いヘシコやカラスミばかり食べてっから、お金が貯まらないの。田舎に帰る時だけ、食べときゃいいの』とか『あんた、メタボリック親父なんだから!』とか、森さん、口うるさく世話を妬かれてたよ。そっか……あの元気そうな、奥さんがねぇ」
宮部につられて、松村もしげしげと森の姿を凝視した。
「ちょっと、やつれちゃったみたいだね。服装も、老け込んじゃったなぁ」
「奥さん……帰り際に、森さんの腕を掴んで『真知子さん、このじいさんが辛いもの注文しても、あんまり与えないでね。甘やかすと、くせになるから』ってケラケラ笑ってるの。根アカな人だった……でも、やっと森さん、元気になったみたいね。今夜は、そっとしておいて、あげよっか」
しかし、その真知子の言葉が終わらない内に、澤井がぬる燗のお銚子と盃を手にして、森のテーブルに近づいて行った。
宮部は、「おっ……澤井ちゃん、珍しいな」と松村と顔を見合わせた。
「あの、お久しぶりで。ここ、座ってもいいですか?」
はっとして見上げた森の頬は痩せこけ、澤井の知っている彼より、10歳ほど老いたようだった。「ああ……澤井さん」
言葉少ない森の前には、芋煮や青菜のおひたしと白い飯、番茶が置かれていた。
「晩飯を、食べに来たんです……テンヤものばかりじゃ、味気ないしねぇ」
それは、精一杯の作り笑顔に思えた。深い目尻の皺が、やけに痛々しかった。
「いつになく、薄味料理ばかりですね。……ぬる燗、どうですか?」
澤井が、森の向かい側に座りながら盃を差し出した。
森は一瞬口ごもり、ふっと感謝の表情を浮かべると、首を横に振った。
「……家内は生来、血圧が高くてね。持病みたいなもので、実は、私よりもずっと高かったんですよ。酒も辛い物も、我慢してました。だから、ガミガミうるさくって。それでも私は、あいつの言うことを聞かずに、勝手に暴飲暴食しましてねぇ。とうとう成人病予備軍になっちまったとたん、家内が先に逝っちまって。すまない気持ちですよ。あいつの気持ちを、もっと早くに汲んでやらなかった我儘な自分が、情けなくてね……よく、冗談で言ってたんです。『あたしが先に死んだら、晩御飯は、マチコで食べさせてもらいなさいよ。あそこなら、安心だから』ってね」
安堵とも、諦めともつかない溜め息を、森は吐いた。
「ええ……知ってます。実は、俺も奥さんに頼まれたことがあって」
「はっ?家内が、あなたに?」
怪訝な顔の森に澤井が盃を渡すと、その脇から、茶色い塊がスッとテーブルに置かれた。
「あの翌日、奥様が一人でいらしたんです。『この減塩したヘシコを、ひと切れなら出してやって下さい。厚かましくて、ごめんなさい』って、置いていかれたんです。能登で一軒だけ、造ってるんだって。これ、その時のままですよ」
真知子が手にしているラップ包みには、茶色い塊が入っていた。
そこには、白いマジックで「1日、ひと切れまで」と書いてあった。
「俺、その時、一人で飲んでましてね。『うちの主人、いつも独り酒でしょう。あなたぐらいの息子がいる年齢だし、もしできれば、たまに話し相手になって下さいな。その方がお酒の量は減るし、体にいいから』って、お願いされちゃって……。奥さん、お話し好きなんで、いろいろ聞かせてもらいました。奥さんのお母さんは早くに高血圧で亡くなって、残されたお父さんは一気に消沈しちゃって、よけい酒が増えて、好きなヘシコしか食べなくて、翌年に亡くなったと……『主人も、酒とヘシコが大好物だから、ついつい、口酸っぱくなっちゃうわ』って……それが、こんなことになるなんて」
澤井はうつむきかげんに、お銚子を手にした。
「でも、奥様は、森さんのお酒もヘシコ好きも、本当は許してた。心配だけど、好きなものを飲んで、食べさせてあげたいって……女同士の内緒って、私におっしゃってましたよ。それに……少しずつ、毎日食べてれば、奥様の声も、あのお説教も、忘れずにいられるじゃないですか」
真知子の声に、森はしばらく目を閉じてから、口を開いた。
「あついが……そんなことを」
森はヘシコをじっと見つめて、ゆっくりと澤井に盃を差し出した。
テーブルの横に、いつの間にか宮部が立っていた。
「実は、私も成人病予備軍でしてね。真知子さんに、辛いのは制限されてんです。けど、この減塩ヘシコなら、今夜は大目に見てもらそうだねぇ」
そこへ、ジョッキを盃に持ち替えた松村が、嬉しそうに現れた。
「皆さ~ん、じゃあ、健康ボディーの僕が、ヘシコちゃんの面倒をみてあげますよ!」
「まっ、あんたはオツムが成人病だから、やっぱ、ひと切れだけねぇ」
テーブル席に、どっと笑いが起こった。
ふっと、いつもの笑みを取り戻した森は、ヘシコをひと切れつまむと、ぬる燗の盃をしみじみと傾けた。