「どっこいしょ!こんにちは」
暖簾を掛ける真知子の背中に、元気な声が響いた。振り向くと、足元には大きなボストンバッグが二つ置かれていて、ツィードのハンチング帽を目深に被るジャケット姿の男が立っていた。
帽子の縁から覗く色白の頬に、真知子の中で、ふっと記憶の糸が結びついた。
「・・・・・・加瀬さん?」
戸惑い気味な真知子の問いかけに、男ははにかみつつ微笑を返した。
加瀬俊一だった。
面立ちは幾分やつれていたが、あの頃の眉目秀麗な雰囲気は変わらないままだった。
「ご無沙汰しています。その節は、お世話になりました。また、真知子さんの手づくりの味を食べてみたくて・・・・・・」
律儀なお辞儀とともに加瀬の口元からこぼれた言葉は、小春日の日なたようにおだやかだった。
「よく、いらしてくれました・・・・・・どうぞ、中へ」
眦をほころばせる真知子に、加瀬はコクリと会釈して、カウンター席に腰を落ち着けた。
帽子を脱いだ加瀬は、白髪混じりの壮年の男のようだった。それは、半年余りの彼の境遇を如実に物語っていた。
柔らかな斜陽を映すマチコのカウンターに、二人の影が並んでいた。
口を開きかけた真知子を制するかのように、加瀬がポツリとつぶやいた。
「よかった。また、ここへ来ることができて」
加瀬は春から以後のことを、ひとつひとつ語り始めた。
会社も資産も一切合財を失った加瀬は死を覚悟し、家族を捨て、行方をくらました。しかし、いざとなると決心が鈍り、身体が震えた。
見知らぬ町々を流転する彼に、夏の烈日は、社員とその家族たちへの罪悪感をも焼き付けた。
「生きるも死ぬも、決心できなかった。負け犬同然。いや、それ以下でした。仲間から逃げ、家族からも逃げました。お終いには、自分からも逃げようとしていた。一人じゃ何もできないのに・・・・・・馬鹿だったんです」
加瀬は信州の田舎町で最期を覚悟した夜、さびれた居酒屋で酒をあおった。
ふと、藍色の切子グラスが脳裡をよぎり、触れられなかったマチコの温かみが瞳を潤ませた。これまでの後悔ばかりが、走馬灯のように浮かんでは消えた。
そんな様子を危惧した客の老人が、加瀬を家に招いた。
老人は酒造りの蔵人だった。春夏は家族とともに暮らし、秋冬には独り出稼ぐ人生を、もう四十五年も続けていると語った。
傍らではしゃぐ孫娘のリンゴのような頬が、置き去りにした我が子を彷彿とさせ、加瀬は泣きむせぶばかりだった。
「人生は四季といっしょだぁ。晴れもありゃ、嵐だってあるさよ。いつもいい天気じゃ、人も米も、酒も良くはならんのさ。分かるかい」
男は加瀬をしばらく居候させ、家族同様に扱った。 手厚いもてなしと屈託のない家族に囲まれて、加瀬は日一日と生気を取り戻していった。
稲穂が黄金に色づき始めた頃、男は加瀬を家に残して越後の酒蔵へと旅立った。やがて男は、一本の酒を送って来た。
「できたばかりの冷やおろしだ。冬から春に造られた新酒が、夏の蔵の中で静かに熟成して、この美味い酒になるんだよ。あんたの出直しに、今年最初の一本を送る」と手紙にはあった。
噛み締めるように、その話しにひと区切りをつけた加瀬は、ボストンバッグから一本の瓶を取り出し真知子へ手渡した。
ラベルも何もない、澄んだ水色の瓶だった。
「一緒に飲みたくて。今度こそ、ここの皆さんと」
ふと真知子が振り返ると、いつの間に現れたのか常連の澤井や辻野たちが、柔和なまなざしを並べていた。
「お帰りなさい。待っていたよ、加瀬さん」