Vol.115 ゴン

マチコの赤ちょうちん 第一一五話

マチコの暖簾をくぐろうとする客たちは、誰もが、ふと足を止め、優しげなまなざしを赤提灯の下に投げていた。
今も2、3人の若いサラリーマンが、揃って玄関先にしゃがみこんでいる。
「何だ、あれ?」
松村がつぶやくと、一緒に通りを歩いて来ていた澤井が目を凝らした。
「犬……柴犬じゃん」
赤い灯りに映える栗毛色の犬が、男たちの伸ばす手にじゃれつくこともなく、おとなしく座っていた。もう酔っ払っている男たちに、犬はどこか迷惑げな表情を浮かべているようだった。
犬の前に立つと、首輪に書かれた消えかけの「ゴン」の文字が、澤井の目に止まった。
「お前、ゴンってのか。いいねぇ~。今どき、渋い名前じゃないの」
頭を撫でられると、ゴンはさっきよりは少し機嫌のよさげな顔で、目を細めた。
「いい子でしょう~。ご主人様を、じっと待ってるのよねえ。和也君よりずっと、おリコウさんかもねえ」
松村が振り返ると、真知子が残り物らしきおかずを手にしていた。
「ちぇっ! こいつのどこが、賢いのぉ? それに、そんなの食うの?」
「へぇ~、ダシ取ったイワシをご飯にぶっかけてんの? これって、昔のイヌまんまじゃないの! こりゃ、ますます気に入ったね」
いぶかる松村の横で、澤井が目をしばたたかせた。
「ゴンちゃんは、これでないとダメなのよ。私もご主人に頼まれた時は、ちょっと驚いちゃったわ」
真知子は器を置きながら、格子戸の向こうに見えるカウンター席に座る白髪の男を見た。
「あの人、初めて見る顔だね」
視線を投げた松村の声に、真知子の声音は少しくぐもって、ゴンを見つめる瞳が寂しそうに笑った。
「槌田さんって言うの……奥さんを亡くされて、駅前にできた単身者用のマンションに越して来たの……最近流行ってる、ペットが飼える高齢者用のマンション。亡くなった奥さんは、ゴンちゃんと毎朝欠かさず散歩してたんだって。買い物行くのも一緒で、ずっとお店の前で待ってたそうよ。だから、こんなにおとなしくて、我慢ができるのよねぇ」
「……犬は、主人が亡くなったことをちゃんと知ってるんだってさ。でも、いつか帰って来るんじゃないかって思って、その人の使ってた物……例えば、上着とかマフラーとかを嗅ぎたがるんだ。そうしないと、ストレスがたまっちゃうそうだよ。TVで見たんだけど、犬と心で会話できるって女性がいてね。元気が無くなった飼い犬を、亡くなった旦那さんのコートを匂わせることで、みごとに回復させてた」
真面目な顔で澤井は語ったが、松村は眉をゆがめてゴンの顔を覗きこんだ。
「ちょっと信じられないなぁ。おい、ゴン。お前もストレスあったの?」
その時、ゆっくりと格子戸が開いた。
「実は、あったんです……体が、真っ白になりましてね」
そう言った白髪の男は、澤井と松村に「槌田と申します」と会釈した。
「ええっ! でも、こんなに茶色いじゃないですか?」
「つい最近、やっと元に戻ったんです。私は、白いまんまですけど」
槌田ははにかみながら自分の頭をポンと叩き、話し始めた。
彼の妻はゴンの散歩中に、クモ膜下出血で倒れていた。ゴンの吠える声に気づいた通りがかりの人に助けられた。日頃から血圧が高く、行きつけの医院を持っていた妻は救急車でそこへ運ばれた。しかし、総合病院ではなかったために処置の仕方がおぼつかず、帰らぬ人となったのだった。
ほんの1時間前に朝食をともにしていた槌田は、声を失って立ち尽くした。呆然と打ちひしがれた夜、暗い座敷に遺体と横たわっていた。
明け方に目が覚めると、妻の愛用していた三面鏡に白髪の男が映っていた。自分の顔だった。
「玄関からゴンが呼ぶので、行ってみると、こいつも真っ白になってました。思わず抱きしめて……それで、やっと大声で泣きました。犬も、人と同じなんです。悲しみも苦しみも、喜びも、ちゃんと分かってる。それに……こいつに、妻がのり移ってる気がしましてね。なにくれとなく、世話を焼いてくれるんですよ」
少し饒舌になった槌田の言葉は、酒の匂いがした。
澤井と松村は、神妙な面持ちで聞いていた。
真知子がちらとカウンター席を一瞥すると、槌田の席には、二合徳利が2本転んでいた。
「……槌田さんって、お強いのね」
「マチコさんは居心地が良くて、つい量が増えてしまいました。今夜は、ゴンに叱られそうだな」
槌田がつぶやくと、酒の匂いを察したかのようにゴンが「ワン、ワン!」と2回吠えた。
「はいはい、分かったよ……こうやって2回吠えるのは、私に対する“ダメ!”出しなんですよ。そういうことなので、真知子さん、お勘定をお願いできますか」
ゴンの頭を撫でる槌田のまなざしが、妻への愛しさを語っているようだった。
「あのぅ、ひょっとして、その首輪の字は」
澤井の目が、さりげなく首輪をさわる槌田の指を見つめた。

「ええ……妻が書いたんです。亡くなった後、思い出すのが辛かったので取り替えたんです。でも、その首輪に戻してやったら、ゴンの色が元に戻った。不思議でした。……この首輪じゃなきゃイヤだって、こいつが言うんですよ」
お勘定する真知子の瞳が、潤んでいた。
「タンスにしまったおふくろのくれた財布……もう一度、使おうかな」
松村が、ポツリとつぶやいた。
「ワン!」
それに答えるように、ゴンの声が澄み切った冬の夜空にこだました。