Vol.111 しょうゆ豆

マチコの赤ちょうちん 第一一一話

ようやく黄色に染まった公園のイチョウは、ここ数日の木枯らしですっかり丸裸にされていた。
ハンチング帽を深めにかぶりコートの襟を立てる津田が、枯葉をためたベンチにふと目を止めた。水銀灯の下で、黒い塊がうごめいていた。目を細めて見ると、若い男が「うう~」と苦しげにうめき声をもらしている。
「おい、どないした? 大丈夫か? 気分、悪いんかいな?」
スタジャンにGパンの男は頬を火照らせ、荒い息で胸をふくらませたりしぼめたりしていた。
津田の手が額をさわると、男はまた「うっ、ああ」とつぶやいて、薄く目を開けた。
「あかんっ! こら、えらい熱やがな! おいっ、しっかりせえ。ちょっと待っとけよ」
言うが早いか、津田はマチコへ駆けこみ、澤井と松村を連れて取って返した。幸い店内にほかの客はおらず、真知子は準備中の札を提げた。そして、119番に電話をかけようとしたが、近所のなじみの内科医に往診してもらう方が速いと判断した。
マチコの座敷席へ担ぎこまれた男は水を口にするのも四苦八苦で、もうろうとした意識のまま「かあちゃん。しょうゆ豆、もっと欲しい……」とつぶやいた。
その声の抑揚は東京のものではなく、また関西弁とも少しちがっていた。
「どこの訛りやろなぁ……広島みたいな感じもするけどなぁ」
「まだ学生みたい、家出でもしたのかねぇ」
不安げな顔の津田と澤井に、真知子が答えた。
「たぶん、四国じゃないかしら。昔、会社にいた頃の友だちが同じアクセントだったわ」
「ヤンキースのジャンパーか。でも、な~んかイマイチだねぇ」
松村の言う通り、男のファッションは言葉使いと同じように、垢抜けしないものだった。
「お待たせしましたな、真知子さん」
開けっ放しになっていた玄関から、しゃがれた声が聞こえた。
古びた鞄を提げてソフト帽を脱ぎながら入って来た老人に、真知子は「遅くにすみませんねぇ、細川先生」と律儀なおじぎをした。
「ようすは、どうですかな?」
「ええ、熱が高くてぼうっとしてるみたいで、さっきもうわ言で、しょうゆ豆がどうとか言って。意味は、分からないんですけど」
細川医師は「ほう? しょうゆ豆ですか……」と目を丸くしつつ、男の顔や首に触れた。聴診器が胸のあちこちに動くと、ヒンヤリとした感触に気づいたのか、男は自分を取り囲んでいる面々に視線を向けた。
「あっ……ここは?」
「これっ! じっとしておれ。君は肺炎になりかかっとるぞ」
体を起こしかけた男を、細川医師の皺だらけの手が押し戻した。そして鞄から注射器を取り出すと、薬を吸入し、ためらうことなく男の腕に射した。
「痛っ! なんしょんや!」
男の声がしたとたん、真知子が「あっ、分かった! 香川県の訛りだ」と叫んだ。
それと同時に、細川医師が表情を厳しくして口を開いた。
「ここでは、なんちゃ治療ができんけん。君はわしと一緒にうちの医院へ来まい!」
「あっ、あれ?」と松村と澤井が顔を見合わせると、津田が「ほう~。達者な讃岐弁ですなぁ」と感心した。
唖然としてままの男に、細川医師がふっとため息混じりで笑みを洩らした。
「何しに東京へ来たんかは知らんけど、いっぺん香川へ帰りまい。体調を治すんには、住み慣れた我が家が一番やけんのう」
ウンウンとうなずく津田の横で、真知子が言った。
「あなた、すぐそこの公園で倒れてたの。この人たちが運良く見つけてくれたの。細川先生はスゴ腕だから、ちゃんと言うことを聞けばすぐに治るわよ」
真知子に出されたお茶をすする細川医師に、男が口を開いた。
「ほ、細川……て、あんたの名前なん? 俺も細川なんや」
「へえ~、そりゃ奇遇じゃんか。君、やっぱツイてるんだよ」
感心する松村の言葉に、細川医師が続けた。
「香川県には、細川姓が多い。わしも高松生まれでのう。ちゅうことは、お前さんの大先輩になるわけで、わしの言うことを聞いてもらわないかんのう」
細川は医師の言葉にコクリとうなずき、この春に専門学校を卒業し上京したのだと、ぽつぽつと話し始めた。
芸能関係の仕事につきたくてあれこれと探したが、コネのない田舎者にろくな仕事はなく、貧しいフリーター生活が長引くばかりだった。
「そんな、行き当たりばったりじゃ無理だよ。下積み生活してる奴らだってゴマンといて、売れるのはほんのひと握り。そいつらだって、半年もすりゃ消えていく世界なんだぜ。それにぶっちゃけ、君のセンスはダサい。香川に帰って、地元で堅い仕事した方が絶対いいって」
松村はたしなめたが、反対する母親を一人残して香川の実家を飛び出したからには何が何でも業界人になるのだと、細川は意固地になって言い返した。
腕組んだ強情そうな横顔を、津田が見つめて言った。
「一筋縄ではいかん子のようやな。とことん、やってみたらええ。そうや! 和也君は広告代理店やないか。なんぼか、コネがあるやろ?」
「そんな、無茶言わないでよ~」
眉をへの字にする松村の背中を、真知子が「袖すり合うも多少の縁!」と叩いた。
「……しゃあないのう。ほんなら、ちょっと待っとれ。よう効く薬を持って来てやるけん」
細川医師が、目を細めてマチコを出て行った。 松村は、しぶしぶ細川のやりたいことを訊ねた。その横で津田と澤井が一件落着と盃を傾けると、そのようすを見ながら真知子は細川のお粥を作った。
ようやく温かい粥が出来上がった時、細川医師が格子戸を開けた。その手には、白い薬袋と茶色のガラス瓶が握られていた。
「あっ! しょうゆ豆」
細川の言葉が途切れると、医師は醤油に漬かったそら豆を、真知子がよそった粥の上に数粒置いてやった。

「今のお前さんに効くんは、薬よりもこっちやろう……ふるさとの味と匂いじゃ。これからは、たまにここでわしと会うたらええわ。讃岐弁をしゃべって、しょうゆ豆を食べまい。いつかふるさとに、錦を飾れよ」
「う~む、細川劇場やなぁ~」
津田の言葉に、みんなが目尻をほころばせた。
一升瓶を手にした真知子が、細川医師に笑った。
「先生、讃岐の地酒も飲みまい!」
準備中の札を提げたままのマチコからは、いつまでも楽しげな讃岐弁が聞こえていた。