Vol.101 赤石温泉

マチコの赤ちょうちん 第一〇一話

明かりの入った赤提灯が、夕焼け空にとけこむ季節になった。
いつの間にか長くなっている自分の影に、真知子は溜め息と笑みをこぼした。
「もうすぐ夏至か……忘れてた」
柱時計の針は6時に近づいていたが、陽射しはまだ明るく、少し前にした玄関の打ち水はもう半分乾いてしまっている。
そのシミを何気なく見つめる真知子の背中に「お店、もう入っていいですか?」と声がした。
はっとして振り返ると、白髪混じりの小柄な男性がスーツ姿で立っていた。
夕陽を浴びた男の顔は、深い皺の影をいくつも刻んでいる。
「あら、ボウッとしちゃって、ごめんなさい。どうぞ、お入りくださいな」
ほほ笑む真知子が、赤く染まった暖簾をたぐり上げた。
「どうも、ありがとう」
男は紳士な雰囲気で、軽く会釈を返した。散髪したばかりなのか、整髪料の匂いが真知子の鼻先をくすぐった。
まだ誰もいない店内を見渡した男は、カウンター席の左寄りに目を細めると「あそこ、よろしいですか?」と真知子に訊ねた。
いつもなら常連たちの座る席だが、澤井は明日の胃腸検診のために酒を控え、宮部はアメリカで日本酒の展示会があり、出張中と聞いていた。松村は昨夜さんざんに酔っ払い、真知子にダメ押しのイエローカードをもらったほどだから、2、3日は現われそうになかった。
「ええ、お好きな席へどうぞ」と真知子が答えると、男は左端から三番目の席に腰を下ろした。男の横顔を、小窓から入る夕陽が赤く染めた。
「あの、まぶしくないですか。ここでよろしいの?」
真知子がおしぼりを出すと、男はぬぐった顔をふっとほころばせた。
イサキの塩焼きを注文した男は、それができるまで、ぬる燗の酒をなめつつ、顔をもたげては窓の方を一瞥していた。
厨房の真知子は男のしぐさに気づいて、やっぱりまぶしいのだろうと小窓を閉めようとした。
とたんに、男の声が店内に響いた。
「あっ! 閉めないでくれますか」
「えっ?」と真知子が怪訝な顔をすると、男は思わず叫んでしまったのを恥じるように小声で言った。
「すみません……もうしばらくだけ。陽が沈むまで、そのまま開けておいてもらえませんか」
男はうつむいて、そのまま黙り込んだ。
「あの……ごめんなさい。私、差し出がましいことしちゃったみたいで」
真知子は男に詫びると、さりげなくお銚子を手にした。
「いや、こちらこそ。わがまま言って、すみません。ちょっと感傷的になってしまってね」
しんみりとする男に酒を注いだ真知子は、「少し、お話しませんか」とつぶやいた。
男はふぅと肩の力を抜き、武田 源太郎と名乗った。
「私、今日、会社に辞表を出したんです。定年までは3年あったのですが、迷った末……最期は、あの夕陽が決め手になってしまいました」
武田は山梨県出身で東京の工業大学を卒業した後、35年間を大手建設会社の土木事業部で勤めた。妻には先立たれ、子どもたちも結婚し、今は気楽な男ヤモメだとはにかんだ。30歳を過ぎた頃、海外向けプラント事業の現場監督に抜擢され、主にロシアやモンゴルの寒冷地で地熱や温泉源を活用した耕地開発に従事してきたと語った。
「ご退職、わけがあるんでしょ……でも、素敵な理由のような気がする」
焼き上がったイサキの皿に、真知子は青いすだちを添えた。
「……帰ることにしたんです、故郷に。何もない山梨の鄙びた田舎町で、3年前までは、母が小さな温泉宿を営んでいました。その一帯は、甲斐の武将だった武田家の隠し湯と伝わっています。私が小さい頃は両親と地元の働き手がいて、わりに湯治客もやって来たのですが、過疎化が深刻になってからは人手が減ってしまい、1日に1組しか客を取れなくなった。本当に秘湯のような宿でした。でも、母が亡くなってからは、ほったらかし。それを去年、町が実家と温泉を買い取りたいと言ってきたんです。東京に過ごして45年、今さら未練はなかったのですが……それからしばらくの間、実家の露天風呂に湧いていた赤い湯、遠くに富士山を望む夕焼けが夢に出てきましてね」
武田は白くなりかけている眉をゆがめ、自分の仕事が温泉源を利用した土地開発だったのも、今となっては皮肉なことだと苦笑した。
だだ不思議なことに、決心してからは憑き物が落ちたように、なるがまま退職に至ったと言う。
武田の声がひと息つくと、静まった店内に聞き慣れた声が響いた。
「そこ、赤石温泉ですなあ」
真知子と武田の目に、パナマ帽と麻のジャケットを着た津田が映っていた。
「あら、津田さん。いつの間に?」
「いやぁ、お話の腰を折るのもなんやし、ちょっと玄関先で涼みながら、立ち聞きさせもろうた。武田はんでしたな、堪忍でっせ」
津田が人の良さげな笑顔を見せると、武田は同世代の人物の登場に表情をほっとなごませた。
ぬる燗を注文した津田はまるで武田と旧知の間柄だったかのように、さしつさされつ、よもやま話を始めた。
武田が、こうはなったものの、先行きには不安も抱えていると打ち明けた。
その肩に、津田がやさしく手を置いた。
「今、武田はんが実家へ帰るのは、あんさんが生まれた時から決まってたんやろなあ。仕事は温泉関連、行った国は赤い国ロシア、それに、あんさんの御先祖筋の武田家は、“赤備え”ちゅうて、赤い鎧兜を着とった。おまけにお湯は赤い色。全部、うまいことつながってますな。御先祖さんと、ご両親を大事にしていったら、秘湯はずっと守れますわ。それに、わしもまた、楽しみが戻ってきましたわ」
そう言って武田の盃に酒を注ぐと、津田は鞄から手帳を取り出し、そのサイドポケットに入っていた1枚の写真を手渡した。
「こっ、これは! うちのおふくろじゃないですか!」
あんぐりと口を開けている武田の手を、真知子が「えっ!? どれどれ!」と覗き込んだ。
色褪せた写真には、髭のない、ちょっとスマートな顔の津田が、割烹着姿の老婆と写っていた。
「武田屋の千代さん……20年ぐらい前、ようお世話になりました。わしが半人前の料理人の頃でね。肩こりと腱鞘炎にかかって、毎年、夏の休暇にあんたの実家へ湯治に行ってましたんや。これでまた、行けまんがな。そうや! 真っちゃん、赤石の湯は胃腸にええねん。ここの客はみなノンベばっかりやし、マチコ温泉ツアーちゅうのもええなあ」
驚きと喜びを演出する津田の粋なはからいに、武田はしみじみと瞳を潤ませ、返杯をしようとした。

ところが武田のお銚子と盃は、なぜか左端の席に移されていた。
「どうぞ、こちらへ……沈む前の、一番真っ赤な夕陽が見えますよ」
真知子のほほ笑みに、うつむきかげんの武田の鼻先が赤らんでいた。
「今度、武田屋へ行く時は、真っちゃんと二人で、シッポリと行きたいなあ」
津田が小窓の夕景を見つめながら、聞こえよがしに言った。
「ねえ、津田さん。お髭で隠してるけど、今、鼻の下けっこう伸びてるわね?」
思わずふき出す3人の顔を、美しい夕陽が赤く彩っていた。